2014年12月18日木曜日

オフィーリア ~Part 3~

おはようございます。
早速ですね。。ごめんなさい!
でも、続き、書きます!!

ここ2回、オフィーリアちゃんについて述べております(*´▽`*)
今日久しぶりに見たわ!という方、ぜひ二つ前のものから、時間のある方は三つ前からご覧くださいませ♪(ふだんこうしんしてないのにスミマセン・・・)
 
さて、このオフィーリアちゃんシリーズは、今日で一旦最後にしようかなぁ~~と思っています。今日は、そのシュトラウスのオフィーリアの曲が作曲された経緯について書こうと思います。
 
あれだけ素晴らしい作品なのですが、もしかしたら作曲されてなかったかもしれない(!)、幻の作品だったのです!!
 
 シュトラウスは、1864年に生まれ、1949年に亡くなるまで多くの作品を残しました。そしてオフィーリアの歌曲は、1918年に作曲されました。

かなりまじめな感じになってますが、論文の一部からちょこっとこのオフィーリアの3つの歌の生い立ちを紹介します。
 
 
 シュトラウスは、多くの歌曲を作曲していて、1882~1929年の間に約150曲もの歌曲が作曲されています。有名な「献呈」などは19歳くらいの時に作曲されています。作曲家初期には、多くの歌曲を作曲していたのですが、中期にはオーケストラ伴奏歌曲を作ったりとオーケストラの作曲に没頭します。そして1905年オペラ『サロメ』の成功以来、シュトラウスはオペラの作曲に専念してしまうのです。
 1913年にベルリンの音楽出版業者ボーテ&ボック社がシュトラウスと、彼の《家庭交響曲》Op.53の出版に関する契約書を交わした時に、今後シュトラウスが作曲するであろう歌曲12曲についても同社が出版する権利を得るという条件を加えました。シュトラウスはその頃まで、一年間に4,5曲から10数曲のペースで歌曲を作曲していたので、12曲くらいなら遅くとも2,3年のうちに消化できると予想していたのでしょう。
というのも、シュトラウスの時代は、歌曲の楽譜の出版というものは、一度当たればかなりの収益を見込めたのです。しかし、1905年オペラ《サロメ》が成功し、国内外に大きな反響を呼び、それからというもの、全精力をオペラの作曲に注ぐようになり、あれほど私情注いで作曲していた歌曲制作には、ほとんど目もくれなくなってしまったのです。
 
約束の12曲については、半数の6曲をやっとの思いで出版社に手渡したものの、残りの6曲については全く出来ず、出版社からの三回にもわたり催促するそのしつこさから逃れるためにシュトラウスがやっとのことで書いたのが12曲からなる連作歌曲集、ベルリンの音楽評論家アルフレート・ケルの詩による《クレーマーシュピーゲル》Op.66でした。
しかし、そのテキストの内容は12曲ともボーテ&ボック者の社長フーゴー・ボック氏自身の会社を含めたドイツの大手楽譜出版業者のことを、語呂合わせなどを駆使して皮肉に満ちたものだったのです。見事な仕上がりは別として、ただ単に純粋な音楽としても実に優美な作品だったのですが、シュトラウスは結局このベルリンの出版社に告訴され、敗訴するのです。
「ちゃんとした歌曲を書け」という裁判所の判決に従ってシュトラウスが作曲したものが、シェイクスピアの『ハムレット』からの「3つのオフィーリアの歌」、ゲーテの『西東詩篇』の「不興の巻」からの3曲の計6曲だったのです。これもかなりきわどいテキストの選択であったが、その内容がどうであれ、こんどは天下の誰もが認める大天才シェイクスピアとゲーテが作った詩に作曲したのです。さすがのボーテ&ボック社も受け取りを拒否することは出来ず、この6曲に作品番号67を付けて出版したのでした。
もっとも、いかにもリヒャルト・シュトラウスの歌曲とはいえ、腕によりをかけて難渋に仕上げられたこの6曲の楽譜はあまり売れなかったようで、いかにもシュトラウスらしい巧妙な復讐であろう。・・と文献にありました。
 
 
 
 こーーんな偶然の産物だったのです。
それなのに、こんなにも素晴らしい世界。そう思いませんか??
 
論文では、オフィーリアを題材にしたいろいろな楽曲について調べたり、歌ったりしました。詳しくはたまに、番外編としてこのブログで紹介いたしますね♪

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